2012年10月20日土曜日

2012年8月10日 避難生活者を取り囲む問題


「ここだけ、町がそのままでしょ?」
 T氏に言われて私は移動中の車から外を覗いた。
 豊間の震災跡地から数分移動しただけなのに無傷の状態の町が残っている。
「地形の関係です。ここは津波の通り道にはならなかったんです」
 振り向けば、さっきまでいた豊間の町の跡が見える。
 ほんの数十メートルの違いで、津波の被害を受けるか受けないかの運命が決まってしまった。
 旅館で女将さんが、運で生き死にが決まったと言っていたのを思い出した。
 

 小名浜への移動中、私はT氏から様々な話を聞いた。
 避難生活を余儀なくされているほとんどの人が現在家族バラバラの状態で暮らしている。家族を親戚の家に預けても、家の主は自分の家を守らなければいけない。福島県内で仕事をしつつ、時々警戒禁止区域内の家に掃除に行く主がほとんどらしい。
 また、福島に残っている者と福島を去っている者との間に軋轢がある。福島を去ると、「自分の家を見捨てて恥ずかしくないのか」と言われ、福島に残ると「あんな危険なところで暮らしておかしいんじゃないのか」という目で見られる。
「無駄な争いですよ。そんな争いをしてると、復興が立ち止まってしまう」
 T氏が呟いた言葉だった。
 避難生活者は国から援助金をもらうことが出来る。
 これがやっかいで、大阪府生活保護不正受給のように、援助金をもらうだけもらって毎日パチンコ三昧の人も少なからずいるそうだ。
「避難生活をしている人のほとんどが仕事をしているし、仕事に就いてない人は次の仕事を探そうと必死です。一部の人がそうやって遊んで暮らしているせいで、避難生活者全員が世間から冷たい目で見られます」
「なんだかそれ、腹が立ちますね」
「腹が立ちますよ。援助金っていうのは働けない人のために出るものなんです。震災のせいで避難生活を余儀なくされたのは健康な人だけじゃないんです。お年寄りや障害者は新しい町へ引っ越すことは出来てもなかなか仕事を見つけることは出来ない。元々自営業だった人は、代々継いできた店を手放して避難生活を送ってるんです。そういう人は今の生活が精神的に苦痛なんです。酷いうつ病になる人もいる」
「実は私もうつ病で入院してたことがあるんです。こんな言い方は失礼かもしれませんが、うつ病の辛さはわかります」
「まだわからないことだらけで、決まってないことだらけなんです。先が全然わからないし、生活もがらりと変わってしまったし、家族はバラバラだしで、避難生活を送ってる人は精神的に参ってる人がたくさんいます。俺なんかは、まだいいほうですよ」
 私は気になっていることがあったので、訊いてみた。
「福岡を出る前に、『福島には行くな。見物人だと思われるぞ』とさんざん言われました。私はもちろん遊びでここに来たわけではありませんが、こうして色々お話を伺うのは嫌じゃありませんか」
「そんなことはありませんよ」
 T氏は意外にも即答した。
「傾聴ボランティアってのがあるくらいですから。震災の話や、悩みを話したい人はいっぱいいると思いますよ。全員が全員話したいわけじゃないでしょうが、ニュースやネットで発言しているジャーナリストの言うことはこっちの実情を全然伝えてませんから」
「やっぱり伝えきれてませんか?」
「被爆なぅは腹が立ちました」
 私は苦笑した。
「福島を食い物にしてるやつらはいっぱいいるんです。その一つが、泥棒です。警戒禁止区域内に入って空き家から家財道具や金品を一式持っていくんです」
「ニュースで見たことあります。やっぱり多いんですか?」
「多いですよ。俺らが今生活しているアパートやマンションは部屋が狭いでしょう? だから家財道具を全部持って行きたくても持って来れないんです。警戒禁止区域に入るのも許可がいるから毎日家の様子を見に行けない。空き巣の連中はその弱点をついてるんですよ」
 私は自分が家に帰ったら、家具もパソコンも金品類も全てなくなっているシーンを想像した。
 ぞっとした。
「悪魔ですよ! あいつらは!! 人の血が流れてない!!!」
 温厚に話していたT氏の声がこの時だけ殺気立った。


 小名浜港はとても静かなところだった。
 海の向こうに見える水族館も津波の被害を受けたらしい。
 今では無事に復興し、営業を再開している。
「小名浜港はいわき駅でいただいた観光パンフレットに書いていました」
 T氏は苦笑いをして、
「今は、あんまり目玉はないかな」と呟いた。
「放射性物質の影響で漁業は禁止。港もご覧の通り閉鎖状態。時々水質調査のスタッフがやって来て海水のサンプルを持って帰ってますよ。昔は近辺のレストランで地元の魚が食べられたんですけどね」
 港が妙に静かな原因は、それだ。
「漁業も完全に禁止されてるんじゃなくて、遠洋漁業はしてもいいんです。カツオとかはそう」
 私は昨晩いただいたカツオのたたきを思い出した。あれは、福島の漁師さんが獲って来たものなのだろうか。だとしたら嬉しい。
 海沿いを歩いた。
 妙な気分だった。海なのに海と思えない不思議な気分。放射性物質が含まれていると考えるだけで、海に対して嫌悪を抱いてしまう。
 それと反して、十人くらいの釣り人もいた。
「釣っても良いんですか?」
 私が訊くと、T氏は答えてくれた。
「正直、そこまで気にしてる人はいないんですよ。食べる人は食べる。彼らも、釣って帰って普通に食べると思いますよ」
「じゃあ、そんなに神経質になってないのが実情ですか?」
「全員じゃないですよ。特にお母さんは食べ物には神経質みたいですね。内陸部の田舎は山が近いんですけど、おじいちゃんおばあちゃんは山菜を採って食べたりしてます。だけど、孫には食べさせない」
「ちょっと驚きました。もっと食材を厳選して生活してるのかと思ってましたから」
「ないない。お店でも平気で刺身とか食べるますよ。そもそも地元産って書かれてるのが、本当に地元産かもわかんないしね」
 T氏は皮肉っぽく笑った。
「海外メディアには、『日本人全員がガイガーカウンターを持ってスーパーの野菜や肉の放射線量を測って買い物をする』って報じてるところもあるらしいですよ」
「そんなわけないじゃん。そんな人、見たことないよ」
 二人は大声で笑った。


 車で大熊町の方が生活している避難所に行った。
 簡素なバンガローテントのような家が何軒か集合している場所だった。洗濯物が干してあったが、ここもあまり活気がない場所だった。
「ここはかなり良いところですね。プレハブの家のところもありますよ。震災後慌てて避難所を作ったんですけど、当初は機能が充実してなかったんです。窓も二重窓じゃないから寒くてね。生活者の意見を聞いて、徐々に窓を改造したり、エアコンを付けたりしたんです」
 それでも、住民に対する精神的な苦痛は計り知れない。
「元々田舎の土地の大きな家に住んでた人が多いでしょ。ある日突然地震に遭って、狭い家で暮らすようになった。辛いと思うよ」
 T氏はそう語った。
 それは、彼自身が避難生活を強いられているからわかることなのかもしれない。
 一つの集落のようになっている避難所。住民と思われる子どもが一人、避難所を取り囲むガードレールに座ってゲームをしていた。

********************追記********************


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